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こおり応援メッセージ 太田 紀伊子さん (川柳作家)

印刷用ページを表示する 掲載日:2011年6月1日更新

太田紀伊子さん(川柳作家)

私の実父・安彦義一、養父・安彦義次郎は桑折町合併前の伊達郡伊達崎村上郡の生まれです。これだけ伊達がつく地名では伊達家発祥の地ということもうなずけます。二人とも戦争の犠牲者ですが、義一は日華事変のおり昭和14年9月23日、中国武漢で戦死。12月には伊達崎村葬をしてもらい、墓は現桑折町大聖寺霊園の一番高い所にあります。五十回忌も済んだ頃、武漢にと北京まで行ったのですが列車の本数が少なく行きの切符しかとれず断念。万里の長城の一番高いところから、武漢方面へ向け線香と花をささげて祈って帰りました。中国開放改革が軌道に乗り始めた昭和63年のことでした。
私は東に霊山、西に半田山や吾妻連峰を眺望する、夏は暑く冬は寒い信達盆地の低いところで育ちました。気候は厳しいながらも、お米も果物もおいしいところです。吾妻山の残雪がウサギ型になると里は種まき、田起こしに活気づきました。田圃には蓮華草の花が咲きミツバチが群れた中でレンゲやシロツメクサのネックレスを作って日暮れまで遊びました。舌が紫色に染まり食べたことがすぐばれるという、桑の実やさくらんぼがおやつでした。中でも桃は大好きでした。海軍だった義次郎の母船が南方で撃沈され右足を負傷、命からがら広島の呉海軍病院に入院して、母・いちと弟・義人が広島に行っていた夏中桃だけ食べていたと祖母・ミセが言っておりました。まだ学童前だったので昭和19年だったのでしょう。あと一年後だったら母たち一家もろとも被爆者になるところでした。

日本一の桃に取り組む伊達男  佐藤千四

桑折町で一番多く作られている「あかつき」はまさに日本一の献上桃です。私の生家を継いで平成19年秋に逝った叔父・安彦重治も桃農家でした。帰省のおりに連れ合いはランニングやウォーキングをし、春の阿武隈川河畔はまさに桃源郷そのものだと私より実感しているようです。
祖母とイナゴ取りもしました。一晩おいて、糞を出し甘辛いイナゴの佃煮には当時のカルシウム源だったのです。お弁当にもよく入りました。
冬は今より大雪が降りました。青年団の皆さんがそり状のもので雪かきをしてくれるのですが、桑折駅までの通学路は当時の村境の辺りで途絶えてしまいます。半田おろしの中、前の人の足跡をたどるのですが、一面の雪の中、吹き溜まりや小川にはまったりして苦労しました。田圃の溝に入ったり衣服は雪まみれのまま汽車に乗り込むのです。雪がびっしょりにとけて、福島駅に降りたときには衣服は凍ってしまいます。冷たいまま歩いたのも今では懐かしい思い出です。

プロフィール

太田紀伊子(おおた きいこ)
桑折町伊達崎生まれ

昭和57年
いわき番傘加藤香風師に師事

平成元年
つくばね川柳会を創立し会長となる

現在
改称後のつくばね番傘川柳会会長
(社)全日本川柳協会常任幹事
藝文学苑・NHK生涯学習・墨田区生涯学習会他川柳講師

著書
川柳句文集「風と組む」他

保存禁止

太田紀伊子さん写真2
桑折公民館の「太田紀伊子川柳コーナー」にて

創吟 太田紀伊子 祭り盛り上げに一役夜店の灯 浴衣の娘サンダル履きの頼もしさ 教科書より大事に読んだ漫画本 捨てられた記憶か猫の人嫌い 「川柳つくばね」212号より

創吟  太田紀伊子 緑陰に立つ師の句碑の凛として 海に眠る予科練の青い鳥 梅雨空を吹き飛ばすかに友元気 体感温度狂わせているかき氷「川柳つくばね」223号より

創吟  太田紀伊子 学生に戻ったように講座聴く 川柳の広義に見方変えられる 長屋からマンションになりそう会費 オバサン力で夜から昼の会へ「川柳つくばね」222号より

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