第2回「刈満峰の石仏」

更新日:2018年03月16日

チョロンケ隊が行く

桑折ことばむかしばなしを検証 第2回「刈満峰の石仏」

「桑折ことばむかしばなし」109ページ(平成3年発行すでに絶版)より

昔、むかし、この内ノ馬場の奥の刈満畑のあたり一帯の高い峯続きんどこは、俗に、みんなから刈満峰って言われていたのない。

ここがらは、登って見っと良ぐ判っけんと、伊達の川東の方、すっかり見えで、とっても景色のいいどごでない。今では山仕事する人なんとも、よくよく少なくなっちまったがら、峰の細道なんど通る人は無ぐなっだようだげんともない。

この刈満峰さは、何体かの石仏祀ってあんだけんどない。そいづは、おらの家の先祖様が造って祀ったものなんだぞい。

先祖はとっても信仰の厚い人だったってない。そうして若い頃から器用人でない。

暇あっとぎは、こつこつと納屋の隅っこの方で石仏だの石塔だのを刻んでいだんだない。

「なんでも仏様造ってらるそうだがら、行って拝ませでもらうべで。」

「いやいや、未だなんぼも出来ていねえなんて言ってだぞ。」

「いいがら、ちょこらでもみでくっぺ」

なんて言って休みの日なんどに見さ来る若者なんてもいだんだどい。

こうして造らっちゃ天照皇大神、賽之河原地蔵、延命地蔵、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩、聖徳太子の七つの石塔は今でも残っていっけんともない。これらは出来上がっと、人に手伝ってもらって、峰さ、祀ったのない。

峰の旗は遠くからも見えで、他の人もお参りさ来られるようになって、一時はとっても賑やかだったぞい。

いつの小間にか、おらいの石仏だけでなくなって、みんなから敬われるようになったのない。

林だの山道荒れはじまってからは、行くことなんてなくなって、ただ遠くからかけ拝みするだけでい。

チョロンケ隊はお盆明けの残暑がまだ厳しいこの時期に(この日の福島市の最高気温は33度)、刈満峰の7つの石塔が現在も実在するのか確認するため、現地に向かいました。

場所は、内ノ馬場地区から産ヶ沢川上流へ2キロほど行ったところにある、大字南半田字刈満畑周辺です。道路から切り立った峰があり、早速、隊は、峰の先から石塔らしい石を注意深く探し始めました。(ここでもう少し注意深くみればよかった)

峯には人が通れるほどの道がありましたが、長年通った形跡がなく、雑木をかき分けながらの調査となりました。また、雑木が繁茂して峯から川東地区眺められる場所も数か所しかありませんでした。

10分ほど歩くと峰の真ん中で我々を見下ろす石を見つけました。注意深く見ると文字が彫ってあります。

第1石塔発見! 隊員の心は躍りました。

勢至菩薩 明治三十七八年と彫られた石塔の写真

石には、「勢至菩薩 明治三十七八年」と彫られていることを確認しました。石の大きさは1メートル弱位で周りにも同じ様な石があり、現地にあった石に彫ったようです。勢至菩薩とは光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないように救う菩薩だそうです。

勢至菩薩発見に勢いついた我々は更に峰を進みました。勢至菩薩碑から100メートルほど登ると50センチメートルほどの石塔を見つけました。表面が風化していましたが「観世音菩薩」と読み取ることができました。

観世音菩薩は観音菩薩・観音さまの事で、中国唐の時代の二代皇帝の名が太宗李世民名(諱)で、当時の皇帝の権力は絶大で、皇帝と同じ名前、同じ文字が使うことができず、観世音菩薩でも「世」の使用は許されず、観音菩薩となったそうです。唐滅亡後も、この名称が定着したそうです。

ここを過ぎると峰の勾配は緩くなり、足取りも軽くなり景色もわずかながら伊達川東地区が見ることができました。

大きな松の倒木を跨ぐと、天を仰ぐように倒れた石塔がありました。

おそらく、松の木が倒れた時に石塔が倒れたと思われます。

倒れた木の下に石塔がある写真

倒れた松の木を移動して、石塔の土台をきれいにして立て直して合掌。「阿弥陀如来」と彫ってありました。隊は次の石塔を見つけるため足早にその場を去りました。

木下の石塔を立て直す様子の写真
阿弥陀如来と彫ってある石塔の写真

さきほどの石塔から200メートルほど登るとありました!

しかも2体の石塔が!

でも近づくと手前の石塔の位置がおかしい。斜めになっており、仏様も居心地が悪そうなので、こちらも位置をずらして建て直しました。ここにきて初めて像が彫ってある石塔を見つけました。むかしばなしに書いてあったとおり、素人が彫ったとは思えない出来栄えでした。「延命地蔵」と彫ってあり、我々隊員の長寿と隊のますますの繁栄を願い合掌。

仏像の絵が彫ってある石塔の写真
倒れた石塔をおこそうとしている写真
賽之河原地蔵と彫ってある石塔の写真

次の石塔は延命地蔵のすぐ上に祀られており、こちらにも像が彫ってありました。「賽之河原地蔵」

半沢茂平と彫てある石塔の写真

この地蔵は、親に先だって死んだ子どもが苦を受けると信じられている冥土(めいど)で賽之河原地蔵菩薩は地獄まで手を差し伸べて人々を救うという、江戸時代に流行した地蔵信仰だそうです。

石塔の脇に「半沢茂平」と彫ってあり、茂平さんは信仰の深い方だったと改めて思いここでも合掌。

さらに隊は進み不自然な石が横たわっているのを見つけました。長さが80センチメートルで細長く、一目で石塔とわかるものでした。

石塔が草むらの中に倒れている写真

近づけば文字が大きく彫ってあり、「天照皇大神」でした。いわずと知れた太陽の神様で、茂平さんは五穀豊穣を願い建立したのかと思いを馳せる。残る石塔はひとつ聖徳太子のみ。隊は足取りを急いだ。

天照皇大神と彫ってある石塔の写真

天照皇大神象を過ぎると道らしい交差点があり、おそらく茂平さんは内ノ馬場から山田沼近くを通り、ここまで運んだと推測。隊は聖徳太子碑を見つけるべく更に峰を登り始めた。

進み続けること30分。峯はやがて平になり峯では無くなり細い道だけになってしまった。隊員たちの気持ちは焦り始めていました。やがて車が走れる道路に出てしまいました。この道路は西山林道で内之馬場から藤倉ダムの近くまで伸びる道路で、刈満峰を過ぎて、南半田字蛇ヶ森まで来てしまったことを確認。

西山林道の写真

残された聖徳太子碑を見つけるため、ここでムザムザとは帰れず、作戦会議(休憩)。

もう一度むかしばなしを読みなおすと、「天照皇大神、賽之河原地蔵、延命地蔵、阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩、聖徳太子の七つの石塔」書いてあります。これは我々が発見した順番と逆であり、もしかしたら聖徳太子の石塔は峯の先端にあるのでは?推測し、今歩いた道を戻り、最初に見つけた勢至菩薩から下の峰をシラミ潰しに探し始めました。

峰の先端付近に30センチメートル弱の周辺にない石をみつけました。

石塔が倒れている写真

ひっくり返すとそこには「聖徳太子」の文字が!

石塔をおこそうとしている写真
聖徳太子と彫られた石塔の写真

取材を終えて

むかしばなしのとおり刈満峰の石塔は今も現存していました。当時、石塔を建立し、山を信仰の対象とした半沢茂平さんあついの思いを改めて感じました。

刈満峰の写真

今は訪ずれる人がいなくなった石塔が刈満峰から我々の生活を見守っている。

次回の検証は「子ハ清水」です。

この記事に関するお問い合わせ先

教育文化課 生涯学習係

〒969-1692
福島県伊達郡桑折町大字谷地字道下22番地7
電話:024-582-2408
ファクス:024-582-2470
​​​​​​​メールフォームによるお問い合せ