半田山自然公園の誕生

更新日:2020年07月08日

1.半田山の崩壊

平安時代初期に銀山が発見され、石見、但馬の生野と並んで半田山の銀山は、日本三大銀山の一つと称されていました。

この半田山の地すべり崩壊は、明治24年頃から少しずつ活動を始め、明治34年~明治36年が最も激しく、山の東側半分に大規模な陥没地すべりが発生し、現在の姿となりました。それまで丸みのあった穏やかな山は、一変して荒々しい姿となってしまいました。

この崩壊により、人家約30戸および鉱山長屋26棟の移転が必要となりました。

2.半田新沼の出現

この崩壊により、山の中腹にあった旧半田沼は消滅し、南側に新しい沼が出現しました。現在の半田沼の誕生です。面積は、62,000平方メートルで東京ドームの1.3倍となります。

3.半田新沼の決壊

明治43年8月10日からの大暴風雨により、半田沼は増水し、8月16日ついに決壊して、現在の北半田地区に大きな被害を与えました。埋没家屋20戸、流出家屋11戸など被害家屋だけでも計111戸となりました。

4.半田山の復旧

「はげっぺ半田山、登ればつるつる」

半田沼の決壊後、明治44年に福島県補助事業として福島県で最初に着手され、旧半田村で半田山の復旧工事を開始し、昭和52年に完了しました。開始以来、67年という長い年月をかけて、地盤保護や苗木の植栽、ヘリコプターによる種まきなどを行い、現在の半田山の姿となりました。昔は、「はげっぺ半田山、登ればつるつる」といわれましたが、先人の努力により見事に緑が戻りました。

5.半田山自然公園の誕生

半田沼の周囲には、明治45年に桜500本が植えられ、桜の名所として親しまれていましたが、病気により枯れ始めました。町では桜の名所として残そうと、昭和56年から沼周辺の整備事業を開始、桜やつつじ、アジサイなど66種類を植栽し、周囲の松林などの整理、また、遊歩道や休憩施設、広場などを整備しました。

さらに、林道の整備、昭和59年からは管理センター・キャンプ場・多目的広場・テニスコート・林間歩道などを設置し、春の桜だけでなく夏のキャンプ、秋の紅葉狩りと四季を通じて楽しめる場となり、平成元年に「半田山自然公園」が誕生しました。

6.半田山の位置

半田山は標高863.1メートル(半田沼は標高419メートル)に位置し、福島市や国見町、宮城県白石市と接しています。桑折駅とは標高約760メートルの差があり気象条件も違い、温度は5度から7度違うこともあり、夏も涼しくすごしやすいです。

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